商業作品とユーザ作品で改変に対する考え方が違う理由を考えたけどできなかった件

ハイエナ騒動の余波がつづいてますが、kawangoさんが面白いことをツイートしてました
http://twitter.com/kawango38/status/18929958378274816
確かにニコ動ユーザは商業作品の改変については自由を求めていて、運営側もJASRACとの包括契約の締結、最近ではavexとの包括契約の発表等、それに応える動きをしてきた。ちなみにMADについては削除宣言は出たけど、小林社長が公の場で権利者にMADを認めてほしいとの要望を口にしています。ニコニコ宣言にある"新しい著作権”の形への挑戦は続いているわけです。
ここで大事なのは公序良俗に反する行為、及び商業活動の阻害(要は丸あげ)でない限り、"完全なる自由”を求めているのであって、「OPパロはいいけどMADは駄目」みたいな権利者の意向による"制限された自由”ではないのです。そして大半のユーザはこれを支持していると思います。
ところがユーザ製作作品の改変については、モラルやリスペクトなど言い方の差はありますが"制限された自由(不自由な世界)”であるべきだという人がかなりいるのです。これはボカロと歌ってみたの間で発生する特別な事情ではありません。具体的に言うと踊ってみたの比較動画に「踊り手の許可は得たのか?」というコメントがつくことはよくあることです。
商業作品とユーザ製作作品へのユーザのスタンスの差は何故生まれるのでしょう?ニコ動のユーザに権利尊重の意識が芽生えているとは、とても思えませんので、何か理由があるはず
理由として考えられるものはあります。事前に許可を得るのが最低限の礼儀、便乗行為が嫌い、クオリティの低い物が出てくるのが許せない、等々。でも、これは商業作品でも共通のことなんですよね。事前の許可だってそもそも商業作品は利用を禁じてるわけですから。僕の中でも答えがあるわけではないのですが、思い当たるふしはある。それは"嫌悪感”です。
これは僕も経験があります。ある踊り手さんの動画を素材にしたMADを見つけたことがあります。いわゆる音MADではなくどちらかと言えば正統派でしたが(まさたかPじゃないです)、これを見た時に物凄く嫌な気分になりました。勝手にいじくり回すなよという怒りにも似た気持ち。ニコニコの場合、ユーザ製作者との距離感が近いからこう感じたのかもしれません。でも正直よく分からない。そして、そんな自分が踊り手MADを作ったりするわけです
何が言いたいのかよく分からなくなってきました。要はこの問題、自分の経験を踏まえると気持ちの部分がものすごく大きいので、簡単には解決しないだろうなと思った次第